不完全でパーフェクト

魔女 BL二次創作とハロプロ

8. 2024年イスラーム映画祭9『辛口ソースのハンス一丁』『私が女になった日』『ファルハ』『アユニ/私の目、愛しい人』『戦禍の下で』

 

2024年のイスラーム映画祭9 東京会場(渋谷ユーロスペース)で鑑賞した5作品の感想。

映画祭公式サイト http://islamicff.com

 

『辛口ソースのハンス一丁』(2013 ドイツ)

イスラーム映画祭でドイツ映画?と不思議に思い鑑賞を決めた作品。トルコ系移民二世の主人公がトルコとドイツの価値観の狭間で揺れながらも結婚相手を探す話。コメディタッチで観やすいが、体面を気にして娘の結婚にあれこれ口出ししたりどんな事情よりも家族を優先することに執着する親世代に腹が立ち「何だこの父親は!?」と悶々としながら鑑賞していた。自分と子供を切り離して考えるどころか所有物だと信じ込んでいる親、あまりにも嫌すぎる。作中の台詞にもあったが、家族と個人の幸せが両立しない価値観に終始息苦しさを覚えた。鑑賞後も作中の親の言動を思い返しては苛ついていたのだが、ある時突然「あの父親も家父長制の枠組みに生きているのだからあの振る舞いは仕方ない」と思うようになった。自身の面目が潰れることはすなわち家の名や家族が貶められ危険に晒されることだ。結婚適齢期とされる年齢を過ぎた娘がいることも、先に下の娘を結婚させることも、家父長制社会に生きる父親にとっては危険なのだろう。共感できる点はないが異文化を感じられて面白かったな〜と軽い気持ちで上映後のトークセッションを聞いていたら「日本でも家族あるある」「普遍的なテーマ」的な言及があり、そうなんだ……?と自分の家庭環境とのギャップに驚いた。現在ドイツの人口の約3割近くが移民ルーツの人々で、最も多いのがトルコ系なのだと初めて知った。移民二世、三世が直面するアイデンティティの悩みは数知れず存在すると想像するが、本作は「恋愛」「結婚」にフォーカスした構成が非常に分かりやすく、だからこそそれらのテーマに「家族」が深く関わる価値観もより強調されていたように思う。

 

『私が女になった日』(2000 イラン)

三人の女性のある一日を描いたオムニバス形式の作品。キシュ島というリゾート地が舞台で、海の美しいきらめきが印象的。チャードル(全身を覆う黒布)を身につける年齢だからもう男の子と遊んではいけないと言われる女の子ハッワの話がかわいくも切ない。魚のおもちゃとスカーフを交換するエピソードが好き。自転車レースに出場するアフーを夫が馬で追いかける話は、途中までアフーの妄想というか内面の表現だと思っていたがそうではなかった。馬の操作がとても上手くて見応えがあった。イスラーム圏の作品で馬を乗り回す登場人物にはあまり会ったことがないかもしれない。イスラーム圏の女性たちの自転車レースという舞台設定が新鮮だったし、いやスポーツくらいするよな……なぜそんな当たり前のことを新鮮だと捉えるんだ……?と自分の認識を不思議に思った。最後の老女の話は眠ってしまいほぼ観られていない……夢のように荷物もりもりの船がただよっている姿だけ覚えています。

 

『ファルハ』(2021 ヨルダン、スウェーデンサウジアラビア

今回の映画祭で一番観たかった作品。パレスチナで発生した「ナクバ」(アラビア語で「大厄災」の意。1948年イスラエル建国にともなうパレスチナ社会の破壊を指す)が題材。パレスチナの美しい自然と人々のささやかな暮らしが一変する様子が少女の視点から描かれる。学ぶために街へ行きたいと願うファルハと、娘の安全のために反対するものの熟慮の末に願いを聞き届けようとする父の愛のあるやりとりや、友人との固い結びつきに胸が温かくなった直後、家族、友人、夢や希望、その全てを暴力によって突然奪い取られる展開は目を逸らしたくなるほどつらい。ファルハが家族に守られる「子供」から一人きりで歩いていく「大人」へと移り変わる姿には涙が出た。このような経験で「大人」にならざるを得なかった人が一体どれほどいたのだろうか。一家を皆殺しにした後、赤ちゃんを殺すよう命じられた軍人がとうとう実行できずに赤ちゃんを置き去りにするエピソードがあり、破壊や略奪や殺戮を繰り返している軍人一人一人にも感情があるという当たり前の事実を思い起こした。上映後のトークセッションには岡真理さんが登場し、ガザの現状について解説をしてくださった。ジェノサイドを生き延びたとしてもこれほど破壊されたガザで再び生活を営み文化を継承することは非常に難しいこと、街や命が奪われることと同時に民族の記憶そのものが破壊されていることを知った。ホロコーストを扱う作品は数えきれないほどあるがナクバを扱う作品は圧倒的に少ないという事実は、欧米諸国がパレスチナから目を背けようとしている証拠でもある。

 

『アユニ/私の目、愛しい人』(2020 シリア、イギリス)

シリアといえばアサド独裁政権、という薄い知識しか持ち合わせておらず、政権下での人道犯罪の多さや強制失踪という問題に初めて触れた。突然連行され、拷問をはじめ非人道的な扱いを受け、殺害されたり消息が分からないままの人が10万人以上いるという異常事態が続いている。途方もない数字に感覚が麻痺してしまうが、失踪前の二人の実際の映像を観ていると「誰かの大切でかけがえのない人が10万人以上犯罪に巻き込まれている」という現実がますます重くのしかかってくる。トークセッションは軍事ジャーナリストの黒井文太郎さん。シリアをめぐる年表やご自身の撮影した写真をもとに周辺国との関わりも含めて解説してくださった。最後に報道におけるナラティブの問題(=誰が語るか)について触れてくださったのが印象深い。作中にも銃よりカメラを持つ方が危ないという言葉があった。テレビや新聞に限らず、誰でも発信できる時代だからこそSNSでのあらゆる情報操作が容易になっている。受け取る側の分別、情報リテラシー、ナラティブの見極めが時代を作り命を守ることに直結すると感じた。

 

『戦禍の下で』(2007 フランス、レバノン、イギリス)

2006年のイスラエルによる第二次レバノン侵攻後すぐに撮影されたという作品。レバノン南部の凄惨な様子が繰り返し映し出され、また数人を除く出演者はエキストラ(現地住民など)であることから、ドキュメンタリーや記録映像としての側面も持ち合わせている。戦禍に巻き込まれた幼い息子を探す主人公ゼイナ、彼女の事情を知らないまま雇われるトニー、二人がそれぞれ異なる苦しみに翻弄される様子を目の当たりにし、戦争とはすべての人が種類は違えどみな等しく地獄にいることなのだと思った。途中で激しく取り乱したゼイナが、ラストシーンでは何を思っているのか判然としない表情を浮かべているのが余計に悲しく、こちらも座席で脱力してしまった。

 

毎年楽しみにしている映画祭ですが、今年は「今こそ観なければならない」と思い参加しました。円安で買い付けをはじめ各種準備が大変な中、開催していただいたことに心から感謝しています。一映画ファンとして、社会の一構成員として、微力だからと投げ出すことはせず、関心を持ち続けていきたいと改めて思いました。

7. 『すべて、至るところにある』

シアター・イメージフォーラム(渋谷)にて鑑賞。不思議な心地で映画館を出て、その翌日にも映画館へ足を運んで再び観た。誰かに薦めたいと強く思ったのだがあらすじをどう説明して良いのか、自分の感想をどう端的に表せば良いのか、一週間考えても二週間考えても分からない。こうして考え続けられる映画が「良い映画」だと個人的に思っている。そんなわけでこうして文章にするにも時間がかかってしまった。

物語の舞台はバルカン半島。そもそもバルカン半島がどこにあるのかもよく分からずに観ていた(映画館を出てすぐに検索した)。そのうち宇宙船のような奇天烈な建造物が出てきて、この星にこんなものが建っていることを初めて知った。スポメニックという名称も初めて聞いた。旧ユーゴスラビアの巨大建造物を指す言葉だが、何だか変な響きだ。一人きりで異国を旅する時の、むきだしの孤独を思い起こさせる。

 

世界的なパンデミックと戦争で生活が一変してしまったある日、映画監督のジェイは姿を消してしまう。以前旅先のバルカン半島で出会ったエヴァにメッセージを残して。エヴァは再びバルカンへと渡りジェイの痕跡を追う……という物語。

ジェイはどこにも属さない一方どこにでも誰にでも入り込んでいく不思議な人間で、まるでスポメニックに乗ってやってきた(そして飛び去っていった)宇宙人のようにも思える。顔を合わせる人にニックと呼ばれて否定するが、彼が本当にニックではないのか、ニックを名乗っていた過去と決別したのかは明かされない。(おそらく)主人公であるエヴァ人間性や感情は、実はそれほど明確には描かれていない。私たちはエヴァの眼を通して見続ける。ジェイという人間を、バルカンの人々の生活を、多種多様で美しいスポメニックを。

時間軸がばらばらと散り、物語の筋を追うのが少しずつ難しくなり、途中でその努力を全て放棄して流れに身を委ねることにした。作品は淡々と流れる。ジェイとエヴァの対話、バルカンの人々が語る戦争の生々しい記憶、人と人が繋がっては離れる孤独と空虚、完成した映画が誰かに届く瞬間、波に揺られながら一つ一つのシーンを通り過ぎる。手を伸ばして掬い上げてまじまじと見つめたり、少し遠いところからぼんやり見たりする。自分とスクリーンの距離は変わらないのに、自分と映画との距離は近づいたり離れたりする。

ジェイは消えてしまったのに、会うことはかなわないのに、衝撃も寂しさも喪失も感じなかった。なぜか安心すら覚えた。ジェイが確かにバルカンにいたこと、人々が戦火を経験してなおバルカンに生きていること、私たちがパンデミックを生きたこと、遠い国に生きる人が自分と同じような孤独を抱えていること、安らぎを守ることが時にはひどく難しいこと、どのように生きたとしても決して否定されないこと、全てが揺るがない真実として映し出されている。それで十分なのかもしれないし、それ以上の肯定は存在しえないのかもしれない。

 

コロナ禍における各国の雰囲気の差がさりげなく描かれており、記録映画としての側面も持ち合わせている。日本ではみながマスクを着用して街を行き交う一方、バルカンではパンデミックが至っていないのかと思うほど誰もマスクをせず談笑し、海外からの旅人を警戒することもない。コロナ禍での葛藤に苦しむジェイと、バルカンの人々の自由な振る舞いの差も心に残る。コロナ禍とは何だったのか、一人ひとりに何を与え何を残したのか、自分は一体どう変わったのか、鑑賞後に繰り返し考えた。

 

映画自体も素晴らしいがパンフレットがとても良かったので鑑賞後にぜひ読んでほしい。撮影の様子を追った「撮影日誌」なるページがあり、いかにコンパクトに撮影が行われたか、いかにその地の人や景色との出会いやインスピレーションを大切に撮られたか、いかに即興での芝居が用いられていたかがよく分かる。リム・カーワイ監督の自称する「シネマドリフター(映画流れ者)」がよく表れているスケジュールと手法だと思わせられ、また多くの突発的かつ断片的な要素をまとめ上げる手腕に驚いた。エヴァ役のアデラ・ソーさん、ジェイ役の尚玄さんがそれぞれバックパッカーとしての経験を活かしていて作品の雰囲気を作り上げているということも知った。鼎談の中で監督が尚玄さんを「無国籍な存在感」があると評しているのも印象的だった。

 

この映画に興味を持ったきっかけはリム・カーワイ監督のSNSの投稿だった。たまたま誰かのリポストを見たのか、おすすめに表示されたのかは覚えていない。当日の夜の上映回に予約が入っていないという切実な内容で、監督みずからこのような発信をする姿は珍しいな、と思い興味本位で予約した。結果として素晴らしい作品を知ることができて嬉しいし、あの投稿を目にしなければ一生出会えなかったと思うと恐ろしくなる。映画は一期一会、人生は一期一会。結局その回は私以外にも観客が何人かいて勝手に安堵した。たまたま映画館の前を通りかかったという海外からの旅行客の方に話しかけられ一緒に鑑賞することになったのも面白い経験だった。出会いも孤独も、私も誰かも、記憶も忘却も、すべて、至るところにある。

6. 同人イベント振り返り(2024/1/28 CC東京)

二次創作小説同人誌を作って即売会にサークル参加しました。本当に苦労したので自戒も込めて振り返りを記します。イベント自体の参加回数は通算12回目(2021年〜)ですが今回が一番大変でした。

参加ジャンル:週間少年漫画誌に連載されていた作品。連載終了後20年経過。

参加実績:昨年夏に続いて2回目。

頒布物:新刊(小説)、既刊(小説)

スケジュール

8月:このジャンルで初参加した7月のイベント直後に申し込み。半年あれば何かは出るだろうの気持ち。7月の本がギリギリ進行で3週間ほどしか執筆時間がとれず、リベンジを決意。

10月:テーマ、かきたいシーンをふんわり決める。連載25周年記念の原画展で情緒を乱す。

8〜11月:別ジャンル原稿(11/23スパコミ合わせ)(色々あって落としました)

11月下旬:海外旅行中にプロットを作る。

12月:少しずつ書き進める。頭から順番に書きたい人間なのに全体の構成が決まらずなかなか筆が進まない。この月はなんと2,000字しか書けなかった。フォロワーさんに表紙を依頼。

年末年始:ここで書き上げる!と強い心で挑んだものの震災関連であわただしく不発。

1/20頃:ようやく10,000字に達する。この時点でまだ構成が決まらず(!?)書きたいシーンが断片的にある状態。こんな雰囲気にしたい!というイメージだけはあるが原作や現実との辻褄が合わず苦労する(結果として妥協しなくて良かった)。出張先につねに私用PCを持ち歩いていたため肩こりに悩まされる。

1/23(火):8,000字書く。見切り発車で背幅を決めフォロワーさんに連絡。このあたりでようやく構成が決まり、舞台転換に必要な装置なども確定する。もう書くだけ!の状態になる。

1/24(水):7,000字書く。このペースだと背幅を1mm増やさないと厳しいことに気づく。フォロワーさんに連絡。データをいただく。素敵すぎてモチベーションが激上がり。

1/25(木):ゾーンに入り10,000字書く。ラストシーンが決まらず、祈るような気持ちで明日の自分に託す。段組ツールに流し込みPDF化、移動中や風呂や寝る直前に読み直して赤入れ。奥付の大枠だけ作る。

1/26(金):おそらく5,000字書く。普段はスマホとPCで同期できる執筆アプリで書いているがこの日はPCの段組ツールのみ使用。ラストシーンに加筆。誤字脱字と表記揺れチェック。ページ調整。奥付作成。深夜3時に入稿。

1/27(土):9時 外出先で通販登録。14時 外出先で印刷所から不備なし連絡。17時 飲み会。深夜 お品書き作成。SNSに告知投稿。

1/28(日):イベント当日。お品書き印刷、ガムテープを買ってビッグサイトへ。本当に本ができていて感動し朝から泣きそうになる。前回は別ジャンルのフォロワーさんが手に取ってくれたが今回はイベント参加がかぶっている方が全くおらず、出ても数部かな…… と思っていたがもう少し手に取ってもらえた。感謝感謝。本当は来てくださった方に「このカップリング良いですよね」とか話しかけたいくらいだったがそんな度胸はなかった。知り合いの方もほとんどおらず、いわゆる長寿ジャンルなのでコミュニティが出来上がっている雰囲気もあったが、周りを気にせずマイペースに頒布できた。お話してくださった方はみんなお優しかった。14時に通販委託分を出荷し撤収。

 

反省

出来上がった本が最高すぎて反省らしい反省がない……と言いたいところだが二度とこんな思いはしたくない。あと一日余裕があればもっと良い本になった可能性を考えれば惜しいことをした。プロットなしでも書ける人間だからとプロットを軽視した挙句こんな進行になってしまった。何もなくても書ける時はガンガン書き、書けなくなったらプロットを作る、その両輪を回さなくてはいけない。

昨秋以降モチベーションが上がらず(神すぎる二次創作を読んでしまったというしょうもない理由です)今回落としたら二度と書けないのでは……と思うくらいしんどかったのでまずは書ききれて良かったし、読み返して良い本だな〜!と思えた。やっぱり自分の妄想も書くものも好きだ。このまま自分の本を愛して生きていこう。たまに(こんなに良い本なのに読んでもらえない……)になってしまうのは本当にやめたい。いや思ってもいいけど、それでテンション下げて書けなくなったら本末転倒すぎる。

普段から脈絡なく繰り広げていた萌え語りが思わぬところで役立ったのでこれからも細々と萌えを記録していきたい。

次は3月の春コミです。11月に落とした本を今度こそ出します。がんばるぞ〜

5. 映画『カラオケ行こ!』

原作ファンの感想。

好きだった点

・原作とは別物だと制作陣も早々に割り切っていた印象。原作の持つシュールな雰囲気、独特の間合い、温度のコントロールは非常に稀有なもので、再現することは無理だと思っていたのでは。それもまたリスペクトの一つの在り方だと感じたし、原作の偉大さを軽んじていないという意味で安堵した。

・原作を踏襲すると聡実のモノローグばかりになるが、そうではなかったところに「映画化する意味をよく理解している」人たちによって作られているのだと思わせられた。

・齋藤潤さんの聡実があまりにも良すぎて感動した。 キラキラ。命。聡実、生きている……。狂児が「聡い果実」って口にしたけど本当にその通りだった。聡い果実。表情もたたずまいも良かったが、やはり「紅」の歌唱シーンが素晴らしすぎた。美しいソプラノの最後の爆発的な輝き、青春を力いっぱい振り絞るような声に内臓がびりびり震えて涙が止まらなかった。齋藤さんでなければ演じられなかった聡実でした。ありがとうございます。

「紅」の歌詞をストーリーに生かしているのが非常に良く、そう来るか〜!と感動した。私自身が映画におけるこういう間テクスト性に弱いのだが、聡実の熱唱がより味わい深くなった。

リトグリ「紅」良すぎた!

 

好きではなかった点

・あれこれ詰め込みすぎ。「あれはあれ、これはこれ」と言いつつ、さすがに別物にしすぎではという気持ちはぬぐえない。全体的に野木亜紀子カラーが強すぎる。 あの原作にここまで要素をもりもりに乗せる必要が……?

・登場する小道具が多い。傘、ビデオテープ、音叉、合唱の手引き、おまもり……キーアイテム候補が多すぎて生かし切れていなかった。原作で効果的に使われていたおまもりの存在感が薄れてしまった。

・和山ワールドの「閉じられた雰囲気」とは真逆の「開かれた」話だったが、その広がりが特に心地良くもなく、ただ登場人物を増やしたように感じられた。

・一緒に映画を鑑賞していた友人の存在意義。さすがにオリジナル要素として強すぎたし、聡実にこんな友人がいることに驚いた。いやいても良いんだけど。 こんな友人もいて狂児もいるってさすがに贅沢盛り合わせ(?)のような。不吉な彗星のような狂児のとんでもない輝きがかすんでしまった。

・劇伴が好きになれなかった。組のみんなにカラオケで指導した後〜車で小指見つける前に入っていたコミカルな音楽が特に違和感あった。 殺されるかと思った、もうやめたいという聡実の心情と合っていなかったように感じた。モノローグを削ることでただでさえ心の動きが分かりづらくなっているので、劇伴にやれることはもっとあったのでは。「紅」で爆発させるならもっと抑えたほうが良かったと思うし。中途半端だった。

 

綾野剛さんの狂児は「綾野剛さんの狂児」で良かったです。 総じてとても楽しかったです。

4. 『王国(あるいはその家について)』

ポレポレ東中野で『王国(あるいはその家について)』を鑑賞した。驚くほど面白かった。衝撃的な150分。映画館で観るべき映画ってこういう作品だよなあ……と思った。事前情報なしで観るのがおすすめなのでできればこの文章も鑑賞後にお読みください。

最初におっ?と思ったのはスクリーンのサイズで、映画館は予告が終わると左右のカーテンがするする開いてスクリーンが横に広くなる場合が多いがこの作品は逆だった。ほとんど正方形に近い形のスクリーンで観る映画は初めてかもしれない。閉じられた物語、もしくは何か実験的な要素のある作品なのかもしれないという予感がした。

調書の読み合わせから物語は始まる。女性の発する「私もう裁かれてます」、これがこの作品のキーになるのだろうと思う。調書の中身はこの女性が幼馴染の娘を殺害したというショッキングなもの。女性のどこか他人事というか、深刻さを感じさせない表情に混乱する。どんな物語が始まるのかと不穏と期待が混ざり合う。

すごいのはここからだった。女性二人が台本を読んでいる。一人は先ほど「幼馴染の娘を殺害した」とされている女性。物語の時系列が過去に移った?事件前は演劇をしていた人なのか?もう一人は誰?幼馴染?この人の娘を殺した?物語の構造を掴もうとするもののなかなかうまくいかない。台本の読み合わせは続く。一人の男性の役者も加わる。冒頭のシーンから登場している女性は亜希、もう一人の女性は野土香、男性は直人という役名らしい。これは冒頭で読み上げられた調書内の名前と一致する。リハーサルの映像が差し込まれているのだ、何かの手違いかのように。もちろん、それが手違いではないことくらいは分かる。にわかには信じられないだけだ。

台本の読み合わせは続く。シナリオの輪郭も徐々に形取られていく。同じシーンを繰り返す場合もある。林や、自動車の車内、電車などの実景が差し込まれることもある。台本の読み合わせは続いていく。レールを外れた物語はどこで本番に「戻る」のか、息をひそめてその瞬間を待つ。台詞回しが独特で違和感を覚えるものの、繰り返しているうちに役者の声にも私の耳にもなじんでくる。マッキー・ザ・グロッケン。城南中の体育館がありありと思い描けるようになってくる。割られた窓ガラスの代わりに貼り付けられた段ボールが、風に吹かれてバッタンバッタンと音を立てている。さすがにしつこいのでは、と辟易とするほどに同じ場面が積み重ねられる。螺旋階段のようだった。同じところをぐるぐると回っているのに、どんどん重なり、練られ、一段ずつ高いところへと至っていく。地味で、単調で、一見刺激がなくて、でも実はものすごく刺激的で、贅沢な時間。この文章の冒頭で「映画館で観るべき」と書いた理由もここにある。この場面さっきも観たよ!と思っても早送りもスキップもできない。ファストやタイパといった現代のキーワードとは真逆な光景を半ば強制的に観せられる。何度も何度も、繰り返し、同じ台詞を口にする役者たち。でも当然ながら「同じ」ではない。声のトーンも、表情の付け方も、役者を照らす光の質感も違う。

後半、役者3人が同じテーブルについて通しで台本を読む場面は圧巻だった。本来ならばその場にいない、出番ではないはずの役者が、他の役者の台詞を聞いている。本来は聞くことのないはずの他者の声を飲み込み、落とし込み、自分の一部として物語を獲得していく。咀嚼して自分の腹から吐き出している。こんな姿を「観客」が観て良いのか。映画を通して感じたのは「観客」に対する途方もない信頼だった。

革新的な手法がこれほど成り立っているのは、もう片方の車輪であるシナリオが非常に素晴らしいためでもある。シナリオブックを買ったので早く読みたい。

亜希の手紙に登場した「領土」という言葉を聞いた瞬間、今自分が考えていることが全てこの手紙に集約されたように思った。私は夏頃から、ずっと1本の詩を読んでいる。エリザベス・ビショップの "One Art" という詩で、しっかり読み込むのは10年ぶりだ。喪失を取り上げたこの作品にはこんなスタンザが出てくる。

 


I lost two cities, lovely ones. And, vaster,

some realms I owned, two rivers, a continent.

I miss them, but it wasn’t a disaster.

 


realm は「王国」「領土」を意味する。二つの都市を、自分のおさめていた広大な王国を、河川を、大陸をなくしたと言う。それらを恋しく思うがそれは大惨事などではないと言う。スケールが大きく難解で、私はこのスタンザが大好きだ。しかし"vaster, some realms I owned" には初めて読んだ時からずっと引っかかっていた。王国をおさめるというのはどう考えても架空の話だ。

この詩では最終スタンザによって、「大惨事などではない」と言っていた "I" が、実際は度重なる喪失に大いに苦しめられていること、その最たるものが "you" であることが明かされる。ずっと平気な顔をしていた "I" は本当のことを語っておらず、最終スタンザによってそれまでの "I" の言葉が全てひっくり返る構造になっている。

『王国(あるいはその家について)』の「王国」は、亜希と野土香の言葉がおさめていたと言う。"vaster, some realms I owned" だ。そして亜希にとっては「王国」こそが祖国で、自分が立ち返るために必要な場所だった。休職した彼女にはこの祖国が必要だった。

二人にしか持ち得ない「領土」もあった。言葉そのものが「領土」なのだ。二人は現実には言葉を交わさなくても話すことができ、いつでも「領土」を獲得することができた。

しかし今は違う。野土香は今、言葉にしなくても伝わる王国ではなく、「全てを言葉にする」王国で生きることを強いられている。二人の「王国」も「領土」もとうに失われてしまっている。本当は二人ともそのことに気づいていた。それなのに気づかないふりをして、平気そうな顔をして、大惨事などではないと思い込もうとしていた。本当は二人にとっては大惨事だったのに、"I miss them, but it wasn’t a disaster." と自分に無理に言い聞かせていた。だから、いびつに押し込められた魂の叫びのような亜希の望郷が橋の上で爆発してしまったのだ。その望郷は野土香のものでもあり、二人が共鳴したからこそ、あの事件が起こってしまった。本当は、二人は悲しまなければならなかった。二人の「王国」と「領土」の喪失を悲しみ、物分かりの良い顔などは捨てて悼むべきだった。喪失を軽んじるべきではなかった。

亜希が手紙を読み、家を出ていく場面で映画は終わると、鍵がかかる音は終焉の合図だと思った。そうではなかった。最後に、作中でもっとも多く繰り返される「城南中」の場面がもう一度挿入される。台詞は私の体にすっかり馴染んでいる。マッキー・ザ・グロッケン。「全てを言葉にする」王国に生きる幼馴染。本来の言葉を奪われ、中身の伴わない空虚な言葉で話すことでしか生きられない、大切な人のそんな姿を亜希の瞳が見つめている。円環のように物語が閉じる。

上映後は草野なつか監督と金子由里奈監督のトークがあった。金子監督の、観客も台詞を獲得していく中で「能動的な存在になる」という言葉が印象的だった。この映画を観る前にSNSで、映画鑑賞と違い読書は能動的な行為だという投稿を読んだ。自分が読み進めなければ世界に入れないし、余白を埋めるのは読者の個人的体験であるという趣旨だったと思う。この映画にも同じような印象を受けた。映画なのに、読み合わせでは誰一人話さない(何が起こっているか分からない)章が続出し、私たちは想像力を働かせてその空白を埋める。同じシナリオを聞いているのに私たちの頭には全く異なる映画が浮かんでいる。このお二人のトークは本当に面白かった。一見普通に見える方々がこんなにやばい映画を作っているのか……と不思議な気持ちになった。シナリオブックには監督のサインも入れていただいた。

「読む」という行為が気になる。この作品はほぼ全編が「読む」に費やされている。調書、台本、手紙。単なる「読む」ではなく「声に出して読む」。これは少し考えたい。普段の生活で「声に出して読む」機会がほぼないのでとても新鮮に思えた。

胸を張って「やばい映画」と言える映画だが、やばい映画だから観て!と言われて鑑賞していたらここまで感動しなかったと思うので人にどう薦めていいのか困る。とりあえずみんな観て度肝を抜かれてほしい。帰りに駅に向かって歩きながら「マッキー・ザ・グロッケン」と声に出したくなってほしい。

3. 今年買って良かったもの2023

マルジェラの財布

ずっと使っていた財布がぼろぼろになってしまい、悩みに悩んでメゾンマルジェラの三つ折りの財布を買った。小さい財布が好き。小さいバッグに入るし、ジャケットやコートのポケットに突っ込めるのが良い。何より、小銭やレシートですぐぱんぱんに膨らむので否応なく財布の中身を整理することになる。ずぼらな人間なのでそれくらいの強制力が要る。

マルジェラを買うのは初めてだった。デザイン自体がものすごく気に入ったというより、マルジェラが似合う人になりたいとふと思ったのが決め手だった。不純。財布何使ってますか、と聞かれてマルジェラですと答える人になりたいと思った。いまだに一度も聞かれていないが。

いろんなブランドのサイトを見たり、現物を見に行ったりして、財布のことを考え続ける時間はとても楽しいものだった。候補はプラダセリーヌジバンシィ、ジミーチュウ、ルブタン。ジミーチュウとルブタンは最後まで迷った。結局は気分でマルジェラを選択したがどれを選んでも後悔しなかったと思う。

今のところ4年周期で財布を替えている。4年後の自分はどんな財布を選ぶだろうか。

書いていたらジミーチュウの小物が欲しくなってきた。ブランドを知ったきっかけは大好きな映画『インハーシューズ』なので靴を買いたいとずっと思っているものの、最近ヒールを履く機会がめっきり減ってしまい気が乗らないのも事実。


指輪

今年は指輪をたくさん買った。手が荒れやすいこともあり今まであまり着けてなかったが、突如として指輪の楽しさに目覚めてしまった。シンプルで太いフラットな指輪を左の人差し指に、大きなプレート状の飾り(名称が分からない)の指輪を右の人差し指に着けている。あとは気分で追加。人差し指に指輪をするとなんとなく背すじが伸びる。

私はものすごく指輪が似合う人だと初めて知った。今では着けていないと心細くなるくらい頼りにしている。服もピアスも香水もそうだが、装飾の力を借りて自分が強くなるのが好きだ。装いを追加するというより、装うことで本来の自分に近づくというか、再獲得するような気さえする。装う楽しさを年々実感する。

どうして今まで指輪を着けていなかったのか改めて考える。手荒れも要因だが「指輪を着けている自分」を耐えがたく思っていたのかもしれない。私なんかが、という劣等感。何十年も前からずっと私の心にこびりついている意識。手強い。とてつもなく手強いが、今の私は確かにあらがえている気がする。


アンドエルシーの紫シャツ

アンドエルシーが大好き。たまに開催されるサンプル品などのセールが楽しみで、今回のセールで紫のシャツを買った。かっこいい唐獅子の柄がふんだんにあしらわれている。強い!かわいい!獅子の柄は大好きだがどうしても和風モチーフの服(超苦手)が多くなかなか着られずにいたので、このシャツに出会えて本当に嬉しい。

アンドエルシーは似合うものと似合わないものの差が激しいのだが、似合うもののハマり具合が本当にえぐい。一生ついていきます……とメロメロになる。今回のセールで買った黒のタンクトップも大変重宝した。シンプルと見せかけて装飾がとても凝っており、柄のはおりやシアーシャツと組み合わせるだけで一瞬で決まるのがありがたかった。


アルビオンの下地

UV入りを探すうちに出会った「インテンスコンセントレートデイクリーム」という下地。お値段11,000円。いちまんいっせんえん……?それまでは同じくアルビオンの「ホワイトフィラークリエイター」を使っていたのだがその3倍以上の価格だ。富豪ではないので迷いに迷った。しかしサンプルの使い心地が良すぎた。当たり前だ。いちまんいっせんえん。下地で?

買った。ボーナスが出て気が大きくなった。とにかく伸びが良くて塗りやすい。べたつかない。日焼け止めにありがちなフィルム感がない。毛穴落ちしない。ツヤが出る。肌荒れしない。どのファンデーションにも合う。容量が多い。パッケージがかわいい、特にキャップ部分のキラキラが最高。毎朝化粧が楽しいです。ありがとう。

アルビオンの日焼け止めといえば「スーパーUVカット ハンドプロテクション」というハンド専用のものが大好きだった。仕事で車を運転する時にいつも使っていたのだが廃盤になってしまった。日焼け止めのキシキシした使用感がなく、なめらかで心地良く、日焼けしやすい手の甲や手首にしっかり塗れる。真夏に一人きり見知らぬ土地で運転する自分にとってお守りのような存在だった。


推しのアクスタ

二次元の推しのアクスタを買った。人生初のアクスタ。一度足を踏み入れたら破産する……と思いずっと避けていたアクスタ沼。私はハロプロのオタクだが、自分の自制心のなさをよく分かっているつもりなのでFSK(フィギュアスタンドキーホルダー。ハロプロはアクスタをこの名称で呼ぶ。事あるごとにとてもかわいい新作が出る)にだけは手を出すまいと決めていた。某アニメーション映画に首ったけになった時もアクスタだけは買わなかった。金銭的な事情に加えて家族に二次元のオタクであることを隠しており、アクスタはオタバレの危険が高すぎると判断したためだ。だって一般人は持ってないもん。

状況が一変したのは秋のことだった。20年以上前、小学生の頃にどはまりしていた某作品の原画展が開催されることになり、記念グッズにアクスタがラインナップされていた。連載開始25年の時を経て世に生み出された推しのアクスタ。葛藤。家族に見つかったら確実にオタバレする。しかし初恋の人のグッズだ。彼に励まされて生きてきた。彼を追って今の仕事に就いた。人生に多大な影響を与えた彼を「持ち運べる」……?

原画展の会場で注文する時、緊張のあまり彼の名前を口にすることができず「2番をお願いします」と伝えるのがやっとだった。帰宅してからもしばらく直視できずずっとしまいこんでいた。数日後、ようやく決心がついて彼のアクスタに向き合った。新規絵の彼は相変わらず凛々しく、でも少し幼く見えた。大事にします。

2. ほら かかってきなさいよ

忘年会

昨日、一昨日と2日連続で同僚との忘年会があった。ここ数年は飲み会らしい飲み会は非常に少なく、飲み会が続くという状況は久しぶりだ。2日ともとても楽しくて少し飲みすぎてしまった。出張のため今朝は5時に起き移動しながらこの文章を書いているが、眠くて眠くてしかたない。

今回初めて迎え酒というものの効果を実感した。前日の飲酒がたたり昨日はずっと二日酔いで、「今夜の飲み会では酒量を控えよう」と決めていたのだが、いざ飲み始めたら胸やけなどの不快感が払拭されてどんどん元気になった。迎え酒はすごい。一体どんなメカニズムなんだ?と思って今検索したら迎え酒には何の効果もないとのこと。そうなんですか。そう言われると急に具合が悪い気がしてきた。お味噌汁が飲みたい。と、スマホで文章を打っていたら乗り換え駅の自販機にお味噌汁(しじみ70個分のちから)があったので買って飲んだ。自販機で味噌汁なんて誰が買うんだ……といつも思っていたが私だった。

昨日の二次会はたまたま見つけたバーに行った。バー慣れしていない私はバックバーの大きさと美しさにいたく感動した。照明の雰囲気もテーブルや椅子も素敵だった。あと1杯だけ飲みたいんだよな〜と思って頼んだジントニックがあまりにおいしくて結局3杯飲んだ。にぎやかなのに騒々しくはなく、店内のざわめきがさざなみのように揺れて心地良かった。この街にはそんな居心地の良い店がいくつか存在している。初めて入った店なのにしっくりきて、体になじむ感覚がある。学生時代に今の会社の入社面接に来た時、この街に初めて降り立った印象が「この街で生きてみたい」だったことを思い出した。

 


Juice=Juice武道館公演

最近まったくJuice=Juiceを追えておらず、12/6の武道館公演も仕事の都合で現地にもライブビューイングにも行けない予定だった。

武道館公演当日の朝、ツイッターのタイムラインに某男性アイドルソシャゲのキャラクターのイラストが立て続けに流れてきた。今年映画が大成功したコンテンツで、私もそれほど詳しくないなりに鑑賞して度肝を抜かれ結局劇場に20回ほど通った(素晴らしかった……)のだが、劇中で一番パフォーマンスが好みだったキャラクターの誕生日だった。映画館に通っていた時のことを思い出し、このキャラクターのパフォーマンスのきらめきを反芻し、なぜかどうにもたまらない気持ちになった。アイドルという存在について、命を燃やしてステージに立つ人たちについて考えた。アイドルのオタクを自称している自分について考えた。仕事は忙しい。私には私の果たすべき責務がある。しかし今日この瞬間のJuice=Juiceを目撃しない理由になどなり得るのか?

仕事の調整にとりかかる。TO DOを見直し、翌日以降に回せそうな案件を探す。ない。先輩に事情を話して(理解のある職場だとつねづね思う)取り引き条件付きで一つ仕事を渡した。念のため多めに作業時間を確保していた案件もあり、多少追い上げることができた。18時開演のライブビューイングのチケットを16時半にとった。前方だがシアター入口近くの端の座席が幸運にも空いていた。退勤直前に後輩に相談を持ちかけられる。話を聞いてもらいたい時に聞いてもらえるありがたさをよく分かっているので付き合う。私の好きなハロメンもきっとこうするだろう。こういう何気ない場面でハロメンが行動指針になることがある。

時間がない。会社の最寄駅まで走り、帰宅ラッシュの電車に揺られ、映画館の最寄駅から走る。のどが渇いてちりちりと焼ける。映画館の入っている商業ビルに駆け込み、満員のエレベーターを一つ見送る。ようやくたどりついたシアターの重い扉を開けると大きな歓声があふれた。ああ間に合わなかった、と思いながらも時計を観ると1分遅刻だった。1曲目はこれからだ。

「Juice=Juice 10th Anniversary Concert Tour 2023 Final ~Juicetory~」と銘打たれた本公演、前半はとにかく松永里愛がすごかった。本当にすごかったのだ。1曲目の「プライド・ブライト」から気迫がみなぎっていた。もちろんどのメンバーも全力を懸けてパフォーマンスしているのが伝わってきたのだが、この日の松永里愛はすごすぎた。声も表情も体も、指の先、髪の毛の先まで、自分の持ち物を全て意のままに操っており、そのすさまじい集中力にただ呆気に取られていた。彼女の歌への情熱やテクニックにはもともと多大な信頼を寄せているが、歌唱の基礎力そのものも大きくレベルアップしているように思えた。特に高音が素晴らしく、難しい音をスパーン!と一発で当ててくるのがたまらなかった。

後半のスペシャルメドレーはスペシャルという冠通りの素晴らしいメドレーだった。キラーチューンが詰め込まれており、10年という期間に楽曲が蓄積してきた爆発力とメンバーの鬼気迫るほどのパフォーマンスに会場のボルテージがとんでもないところまで引き上げられるのを感じた。前半は松永里愛の独壇場(に見えた)だったが、このメドレーでの段原瑠々は圧巻で何度も鳥肌が立った。松永里愛はじめ他のメンバーの気迫に段原瑠々が魂の全てで応えているようで、彼女の歌声に他のメンバーが感極まっている様子さえ見られた。メドレー終盤の「Never Never Surrender」→「CHOICE & CHANCE」→「Magic of Love」の3曲は特にすさまじく、彼女の声を聴くたびに胸が震えて泣きっぱなしだった。この人は一体どこまでいってしまうのか。「プラトニック・プラネット」に「金星まで行っちゃいたい」という彼女のパートがあるが、本当にロケットの打ち上げのように、もしくは軽々と箒にまたがる魔法使いのように、どこまでも飛んでいってしまうような気がした。

本編終了後お手洗いに立って気づいたのだが、自分が予約した時には空いていた座席もだいぶ埋まっていた。私のように直前まで都合を調整してライブビューイングに駆けつけたのだろうか。お手洗いの順番待ち中に社用携帯の電源を入れると急な案件が舞い込んでいた。観念して映画館を後にし、ファミレスで仕事をした。後でセットリストを確認するとアンコールではデビュー曲メドレーなるものを披露していた。悔しい。悔しいが円盤を心待ちにする。

ライブで聴く「Va-Va-Voom」が大好きだと改めて実感した。「"変わらないでいてね" 私は無理よ」、そう歌う彼女たちに頬を張られた気持ちになった。形を変え続けるJuice=Juiceを正直こわいと思ったことも、ここ数年の好みでない新曲に落胆したこともある。でも彼女たちはこちらのそんな事情になど一切かまわず、左右されないくらいスピードを上げて進んでいってしまうのだ。来年春には最後のオリジナルメンバーであるリーダー植村あかりの卒業を控えている。メンバーの卒業は寂しいが、寂しいことばかりではないと教えてくれるのもまたハロプロだ。

本公演は衣装もとても素敵だった。1着目の松永里愛と石山咲良のパンツスタイルがかっこよすぎた。私はモーニング娘。'19の青春Night衣装のようなタイトめのパンツ衣装が大好きだ。昨年か一昨年くらいからハロプロは良い衣装が多い気がする。どうしても有限なアイドル人生、どうか1着でも多く素敵な衣装を着てほしい。