不完全でパーフェクト

魔女 BL二次創作とハロプロ

4. 『王国(あるいはその家について)』

ポレポレ東中野で『王国(あるいはその家について)』を鑑賞した。驚くほど面白かった。衝撃的な150分。映画館で観るべき映画ってこういう作品だよなあ……と思った。事前情報なしで観るのがおすすめなのでできればこの文章も鑑賞後にお読みください。

最初におっ?と思ったのはスクリーンのサイズで、映画館は予告が終わると左右のカーテンがするする開いてスクリーンが横に広くなる場合が多いがこの作品は逆だった。ほとんど正方形に近い形のスクリーンで観る映画は初めてかもしれない。閉じられた物語、もしくは何か実験的な要素のある作品なのかもしれないという予感がした。

調書の読み合わせから物語は始まる。女性の発する「私もう裁かれてます」、これがこの作品のキーになるのだろうと思う。調書の中身はこの女性が幼馴染の娘を殺害したというショッキングなもの。女性のどこか他人事というか、深刻さを感じさせない表情に混乱する。どんな物語が始まるのかと不穏と期待が混ざり合う。

すごいのはここからだった。女性二人が台本を読んでいる。一人は先ほど「幼馴染の娘を殺害した」とされている女性。物語の時系列が過去に移った?事件前は演劇をしていた人なのか?もう一人は誰?幼馴染?この人の娘を殺した?物語の構造を掴もうとするもののなかなかうまくいかない。台本の読み合わせは続く。一人の男性の役者も加わる。冒頭のシーンから登場している女性は亜希、もう一人の女性は野土香、男性は直人という役名らしい。これは冒頭で読み上げられた調書内の名前と一致する。リハーサルの映像が差し込まれているのだ、何かの手違いかのように。もちろん、それが手違いではないことくらいは分かる。にわかには信じられないだけだ。

台本の読み合わせは続く。シナリオの輪郭も徐々に形取られていく。同じシーンを繰り返す場合もある。林や、自動車の車内、電車などの実景が差し込まれることもある。台本の読み合わせは続いていく。レールを外れた物語はどこで本番に「戻る」のか、息をひそめてその瞬間を待つ。台詞回しが独特で違和感を覚えるものの、繰り返しているうちに役者の声にも私の耳にもなじんでくる。マッキー・ザ・グロッケン。城南中の体育館がありありと思い描けるようになってくる。割られた窓ガラスの代わりに貼り付けられた段ボールが、風に吹かれてバッタンバッタンと音を立てている。さすがにしつこいのでは、と辟易とするほどに同じ場面が積み重ねられる。螺旋階段のようだった。同じところをぐるぐると回っているのに、どんどん重なり、練られ、一段ずつ高いところへと至っていく。地味で、単調で、一見刺激がなくて、でも実はものすごく刺激的で、贅沢な時間。この文章の冒頭で「映画館で観るべき」と書いた理由もここにある。この場面さっきも観たよ!と思っても早送りもスキップもできない。ファストやタイパといった現代のキーワードとは真逆な光景を半ば強制的に観せられる。何度も何度も、繰り返し、同じ台詞を口にする役者たち。でも当然ながら「同じ」ではない。声のトーンも、表情の付け方も、役者を照らす光の質感も違う。

後半、役者3人が同じテーブルについて通しで台本を読む場面は圧巻だった。本来ならばその場にいない、出番ではないはずの役者が、他の役者の台詞を聞いている。本来は聞くことのないはずの他者の声を飲み込み、落とし込み、自分の一部として物語を獲得していく。咀嚼して自分の腹から吐き出している。こんな姿を「観客」が観て良いのか。映画を通して感じたのは「観客」に対する途方もない信頼だった。

革新的な手法がこれほど成り立っているのは、もう片方の車輪であるシナリオが非常に素晴らしいためでもある。シナリオブックを買ったので早く読みたい。

亜希の手紙に登場した「領土」という言葉を聞いた瞬間、今自分が考えていることが全てこの手紙に集約されたように思った。私は夏頃から、ずっと1本の詩を読んでいる。エリザベス・ビショップの "One Art" という詩で、しっかり読み込むのは10年ぶりだ。喪失を取り上げたこの作品にはこんなスタンザが出てくる。

 


I lost two cities, lovely ones. And, vaster,

some realms I owned, two rivers, a continent.

I miss them, but it wasn’t a disaster.

 


realm は「王国」「領土」を意味する。二つの都市を、自分のおさめていた広大な王国を、河川を、大陸をなくしたと言う。それらを恋しく思うがそれは大惨事などではないと言う。スケールが大きく難解で、私はこのスタンザが大好きだ。しかし"vaster, some realms I owned" には初めて読んだ時からずっと引っかかっていた。王国をおさめるというのはどう考えても架空の話だ。

この詩では最終スタンザによって、「大惨事などではない」と言っていた "I" が、実際は度重なる喪失に大いに苦しめられていること、その最たるものが "you" であることが明かされる。ずっと平気な顔をしていた "I" は本当のことを語っておらず、最終スタンザによってそれまでの "I" の言葉が全てひっくり返る構造になっている。

『王国(あるいはその家について)』の「王国」は、亜希と野土香の言葉がおさめていたと言う。"vaster, some realms I owned" だ。そして亜希にとっては「王国」こそが祖国で、自分が立ち返るために必要な場所だった。休職した彼女にはこの祖国が必要だった。

二人にしか持ち得ない「領土」もあった。言葉そのものが「領土」なのだ。二人は現実には言葉を交わさなくても話すことができ、いつでも「領土」を獲得することができた。

しかし今は違う。野土香は今、言葉にしなくても伝わる王国ではなく、「全てを言葉にする」王国で生きることを強いられている。二人の「王国」も「領土」もとうに失われてしまっている。本当は二人ともそのことに気づいていた。それなのに気づかないふりをして、平気そうな顔をして、大惨事などではないと思い込もうとしていた。本当は二人にとっては大惨事だったのに、"I miss them, but it wasn’t a disaster." と自分に無理に言い聞かせていた。だから、いびつに押し込められた魂の叫びのような亜希の望郷が橋の上で爆発してしまったのだ。その望郷は野土香のものでもあり、二人が共鳴したからこそ、あの事件が起こってしまった。本当は、二人は悲しまなければならなかった。二人の「王国」と「領土」の喪失を悲しみ、物分かりの良い顔などは捨てて悼むべきだった。喪失を軽んじるべきではなかった。

亜希が手紙を読み、家を出ていく場面で映画は終わると、鍵がかかる音は終焉の合図だと思った。そうではなかった。最後に、作中でもっとも多く繰り返される「城南中」の場面がもう一度挿入される。台詞は私の体にすっかり馴染んでいる。マッキー・ザ・グロッケン。「全てを言葉にする」王国に生きる幼馴染。本来の言葉を奪われ、中身の伴わない空虚な言葉で話すことでしか生きられない、大切な人のそんな姿を亜希の瞳が見つめている。円環のように物語が閉じる。

上映後は草野なつか監督と金子由里奈監督のトークがあった。金子監督の、観客も台詞を獲得していく中で「能動的な存在になる」という言葉が印象的だった。この映画を観る前にSNSで、映画鑑賞と違い読書は能動的な行為だという投稿を読んだ。自分が読み進めなければ世界に入れないし、余白を埋めるのは読者の個人的体験であるという趣旨だったと思う。この映画にも同じような印象を受けた。映画なのに、読み合わせでは誰一人話さない(何が起こっているか分からない)章が続出し、私たちは想像力を働かせてその空白を埋める。同じシナリオを聞いているのに私たちの頭には全く異なる映画が浮かんでいる。このお二人のトークは本当に面白かった。一見普通に見える方々がこんなにやばい映画を作っているのか……と不思議な気持ちになった。シナリオブックには監督のサインも入れていただいた。

「読む」という行為が気になる。この作品はほぼ全編が「読む」に費やされている。調書、台本、手紙。単なる「読む」ではなく「声に出して読む」。これは少し考えたい。普段の生活で「声に出して読む」機会がほぼないのでとても新鮮に思えた。

胸を張って「やばい映画」と言える映画だが、やばい映画だから観て!と言われて鑑賞していたらここまで感動しなかったと思うので人にどう薦めていいのか困る。とりあえずみんな観て度肝を抜かれてほしい。帰りに駅に向かって歩きながら「マッキー・ザ・グロッケン」と声に出したくなってほしい。